2016年1月21日木曜日

温泉に行かない日(307) 超激務につき

帰宅後のプライベートの時間はメシと酒を摂取するくらいしか取れず、シャワーを浴びる余力もなく敷きっぱなしの布団にへたり込むだけという状態がここ数週間続いており、今後数ヶ月はその状況は解消されない見込みです。
このような意味無しブログなので書いても書かなくてもどうでもいいことですが、1日に50人前後は見ている人が居るようですので念のため、ここ暫くはポスト出来ないことをお伝えしておきます。
以前のように、精神的に病んでいる系の話ではないので、その点はご安心ください。

2016年1月16日土曜日

天神湯(1)

天狗湯という素晴らしい名前の銭湯が廃業しているのを確認して意気消沈の私は、心のなかで六根清浄を唱えることも忘れ、駒形神社横に停めた車に戻って駿府城公園北の静岡高校方面に向かいました。
目的地は天神湯(静岡県静岡市葵区浅間町1-29:054-281-4892:¥360:15:00-23:00)。


天狗湯(1) *廃業*

桜湯を出て、次なる銭湯に向かいます。
ふと気づくと歩くテンポに合わせて「ろっこんしょうじょう」と心の中で唱える自分が面白い。
六根清浄はオレのハートに深く突き刺さってしまったようであります。

次の銭湯は桜湯から5分程の場所にある天狗湯(静岡件静岡市葵区本通7-2-1)です。
ここは結果から言うと廃業してました。
天狗湯
© ill-health(ruephas) 2016
写真の奥側にKIRINの自動販売機が見え、その右側がコインパーキングになっていますが、それが天狗湯の跡地のようです。
帰宅後調べてみると、どうやら2010年頃にはすでに廃業していたようです。
古い銭湯ってのは設備維持が大変だろうし、今は原油安でパッパラーパーな俺たちは「ガソリン代安なってうれちー」とか浮かれてますが、一時期は猛烈な原油高の時期があって個人経営が多いこの業界は結構痛い目にあったとも聞きますし。
残念ですがしかたないことです。
店主も常連客もオレなんかよりずっとずっと残念だっただろうしなあ。

桜湯(1)

正月休みは貰いましたがその前後の仕事が本当に猛烈に忙しく、これ書いてるのは2016年に入ってからなのですが昨日までの1週間は51歳の老体にとっては本当に過酷なものでありました。
そういう事情で肉体的に、そしてそれ以上に精神的にはマジ疲れきっており、このブログへのポストは当然の事(デヴィッド・ボウイ逝去には色んな意味でショックを受けましたので流石に心境を記しましたが)、FaceBookへの投稿という簡単な作業も一切出来ないまま年を越したわけです。
今日は勤務先は休業ですので洗濯しながらこれ書いてますが、それらが終わったらやり残しの仕事をこなしに事務所に行くつもりではいます。

などと下衆な野郎の如く多忙を自慢気にひけらかして言い訳にしときます。

さて、実は前年2015年暮れの12月26日に、前から行きたかった静岡市内銭湯に行ってまいりました。
まず行ったのは桜湯(静岡県静岡市葵区駒形通3-2-1:054-252-1241:¥340:14:00-24:30:定休火曜)です。

2016年1月11日月曜日

温泉に行かない日(306) デヴィッド・ボウイが死にました

「★」が発売されている事は知っていましたが、その発売直後に死んでしまうとは。

誤解のある表現だとは思いますが敢えて書くと、「デヴィッド・ボウイ」という凄い存在が消えてしまったという事そのものも大きな痛手ですが、そのデヴィッド・ボウイを含め、自分の人生を彩ってくれた「人々」が最近どんどん死んでいくという状況が私を滅入らせ、悲しいというより辛い気持ちにさせます。

若い頃は、人の死なんて自分にはあんまり関わりのない事のように思え、例えば小学生の頃に同級生がふとした事故で亡くなった時も「みんな何でそんなに泣くんだろう」と感じた記憶があり、その後も人の死に関しては何の感情を持つ事が出来ない人、というか、精神的に避けたり、敢えて無感情になったり装ったりしてた気がします、この年まで。

最近、自分に親(ちか)しい人、それは実生活の中で親しい人は勿論ですが、それだけではなく直接逢ったことはないけれども自分の人生に彩りを与えてくれた人、影響を与えてくれた人、そういう人の多くは私より年上の人が多いので自分より早く死ぬのは必然とは言え、加齢に伴いそのような人の訃報に触れる機会が増えてきました。
その環境になって初めて人の死をスルーせずに自分で受け止めようとしてそれが出来ず、徒に混乱してしまう自分がいます。

なんて身勝手な!
と自分でも思います。
でもそれが正直な気持ちです。

私自身の死は、私自身が見る事はなく、しかも私自身は社会の中でどうでもいい存在なので死も同様にどうでもいいというか、要するに勝手に死ねばいいと自分でも思うのですが、自分の人生の中に入り込んでしまった人が死ぬのはそれはしんどいと、今は本当に思います。

一昨年、昨年、そして今年と、私が若い頃に直接間接問わず影響を受けた人が、ぼつぼつと死に始めています。
私だってもう50を過ぎましたから、世の摂理に従えばそういう状況にあるのは当たり前だとは思いますけど、最近の個人的な感情とすれば、これから増えていくのが確実である他社の死に耐えられるかどうか、ちょっと自信がありません。
自分でもガキだとは思いますが、これが今の正直な面持ちです。

表面的には、例えば明日も朝早く仕事場に行って会議して、普通に仕事して、今までどおり疲れて帰宅しますが、内面では…。