2012年12月6日木曜日

廃湯跡を歩く(1)

中年過ぎから温泉とか銭湯に目覚める人は私も含めて割合多かったりするんですかね。
その辺、よくわかんないねぇ。

私は基本熱がり(誤変換に非ず。まあ「暑がり」でもありますが。だから夏は好きではない)なので風呂は余り好きではないのにも関わらず、温泉とか銭湯に惹かれてしまったのは全く自分でも訳がわからないのです。
いやあ、風呂、嫌いなんですよねえ。
実際の所、以前も書きましたが自宅の風呂の浴槽に浸かるのは、そうだなあ、数ヶ月に1度かな。
まじですよ。
最近のように寒くなってきても殆どシャワーで事を済ませており、少なくとも自宅では「入浴」とは無縁なセイカツであり、それは子供の頃からの事です。
先日も実家に帰った際、風呂に入るのがめんどくさかったため、
「今日は(「も」かな)風呂はいいや」
と言って酒を飲み続けていたら、年老いた母親が、
「全くぅ。あんたはホントに子供の頃から風呂嫌いで困るわ」
と言っておりました、ははは。
でもホントに自分でも解んないんだよなあ。
風呂が嫌いなのに銭湯とか温泉が好きってのは、精神的に分裂してるよなあ。

風呂が嫌いなのに、熱がりなのに銭湯とか温泉が好きという二律背反な俺ですけど、事実としてその通りなのでしかたないよねえ。
家の風呂を使わずして銭湯に行く時は屢々なのですが、その瞬間「家では殆ど湯船につからないくせにして、銭湯に行く」ということに関して全く葛藤を感じないのですな。
変人だと思う。
しかし、好きなものは仕方ない。

好きなのはいいんだけど浜松近辺には温泉が少なく、銭湯も2つしか残ってません。
一回行って気に入って、もう一回行き、更に再度行ったらあっさり潰れてた銭湯がありましたし、行った事がないので一縷の望みを抱いて行ってみたら、哀しい事に案の定潰れてたという銭湯もあります。
それを体験すると、本当に残念な気になるんだよ。
時代が移ろうと、かつて当たり前だった事が当たり前じゃなくなって行くじゃない。
銭湯もその類いでさあ、今はまだ存在している銭湯ってのは残念ながら「当たり前」の存在じゃなくてさ、「頑張っている」とか「文化財的だ」とか「何とか支えよう」っていう評価になりつつあるじゃない。
もちろんお互い、その意気や良し!ですけど、なんか複雑な気分にもなりません?
銭湯とかってそんな力を入れなきゃ語れなかったり、体験(この「体験」という言葉が出てくるのがそもそもオカシイよね)出来ないような存在じゃなくて、普通な感じであるべきなのにね。
でも実際そうなっちゃってるんだな。

経済という野郎は北朝鮮よりも無慈悲であり、銭湯を経営する側もそこに通う客側もそれぞれ感じている「何とかこの銭湯を生きながらえさせたい」という願いを軽やかに無視して、どんどん銭湯を潰して行く。
斯くして銭湯建家は壊され、アパートになり、駐車場となり、或いは更地となり、物理的にも記憶からもこの世から消されてしまう。
「ああ、あの銭湯か。ありゃあ良かったよ。ガキの頃毎日通っててさあ、親父は風呂上がりにみかん水飲んでたけど、オレはずんぐりした瓶のヨーグルト喰うのが愉しみだったな」なんていう体験と記憶がある人はまだ幸せだよね。
私には、それがない。

じゃあせめて、その「親父はみかん水で、子供はヨーグルトに喜びを感じ、勿論二人とも浴槽を愉しんでた」銭湯の跡地に行ってみて、当時に思いを馳せてみてはどうかな、と最近思い始めました。
題して、

「廃湯跡を歩く」

私が敬愛する宮脇俊三氏が、晩年のライフワークの一つとして取り組んだ鉄道廃線跡を歩く(JTBパブリッシング:キャンブックス:¥1631:ISBN9784533023378:他シリーズ全10巻)、それを少しだけパクってるのは言うまでもないです。
すみません宮脇先生。
あんな格調高い文章は書ける訳がないけどね。
実を言うと既に、
  • 大栄湯
  • 松の湯(松之湯)
  • ミシマの泉
  • 葉山温泉(足湯)
  • グランドホテル鳳陽
等々、かつて営業していた温泉・銭湯の跡地を意図せず訪れています。
その事をもう少しちゃんと書ければなあと思うのです。
短い文章になるだろうけど。

今後、折りを見て書いてみたいと思います。

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たぶん。