2021年1月17日日曜日

温泉に行かない日(471) 姫街道のぞうさん①

ワシは浜松市中央図書館に行ってみることにした。
最近は図書館システムが発達しておって、自宅からでも図書館内でもいくつかの条件を組み合わせて蔵書を検索することが出来る。
図書館内にある専用端末で「姫街道 象」で検索すると、
  • 享保の象と歩く姫街道歴史探訪会  会創立30周年記念・豊橋市制施行100周年記念事業
  • 点字1/2姫街道 見てある記
の2冊が見つかった。
前書は豊橋の人が書いておるようで、雰囲気的には自主出版とかという感じじゃろう。
後書は点字本じゃからワシには読めぬ。
じゃから取り敢えずワシは前書を選ぶことにした。
館内でしか閲覧できん資料のようじゃ。
これは何でも豊橋に住む藤原 裕一という人が2006年に豊橋市嵩山(すせ)の辺りから、浜松市の境目あたりにある腹浅間の辺りまでを歴史散策した際の計画書及び結果報告書のようなもののようじゃ。
従って、手作り感満載の資料じゃ。
ちなみにその行事の際には、藤原氏のご子息(当時高校3年:ということは今は33歳くらいか)が象の被り物を被って同行したと書いてあり、実施時期は10月中旬じゃったから、さぞ暑かったであろうとご同情申し上げるばかりじゃ。
受験は大丈夫じゃったかなあとも心配になる。
さてその中に、ぞうさんに関して少し詳しい情報が書かれておる。
本当は全文転載したいところじゃけども、どうするかな。
いやあ、やめとこう。
抜粋してみるが宜しかろう。
主には資料のP17に書かれている「◆亨保のゾウ」のセクションからの抜粋じゃが、抜粋元の文章を藤原 裕一さん自身が書いたのか、他の書籍からの転載なのかがはっきりしないので著作権的に問題あるかも知れんし。
記載には実証されていない仮説と思しきものが多いが、これは致し方ないことじゃろう。
以下「」書きは各資料から忠実に引用した部分で、地文はワシの主観が大いに入っておるから注意しなされ。

【何でぞうさん?】
吉宗という人は海外本が好きだったそうで、その関係で当時ベトナムではぞうさんを軍用として使っていることを知っていたのではないか。
だからそうさんがどんくらい実践力があるのかを実際に見たかったのではないかということらしい。
所で当時もし熱帯雨林(Aで始まる国際的通販会社)が存在していたら、海外モノが好きな吉宗はさぞ狂喜したことであろう。

【誰がぞうさんを運んできたのか】
中国の商人である鄭太威という人が、亨保13年(1728年)6月にベトナムから長崎に運んできた。
吉宗の側近が吉宗に忖度して発注したのか、吉宗本人が支持して発注させたのか、吉宗のぞうさんに対する興味を噂に聞いた鄭太威が気をきかせたのか、どうなんじゃろうか。
象鳴き坂に立っておった案内板には「京都から江戸へ下る途次」とあったんで、ワシは勝手に京都上陸と思っとたんじゃが、スタートは長崎じゃった。
まあそりゃそうじゃ。
当時の貿易窓口は長崎の出島に絞られておったんじゃものな。

【ぞうさんは何頭きたのか】
運ばれたぞうさんは牡牝の各1頭だったが、牝ぞうさんは逗留先の長崎唐人屋敷で病死してしまったようじゃ。
着いたら寒い国じゃしなあ。
可哀想に、長旅の疲れが出たのかも知れん。
まさか自分がこのような異国で死ぬことになるとは思いもよらんかったじゃろうなあ。

【ぞうさんの体格】
  • 頭長:2尺7寸(約0.9m)
  • 鼻長:3尺3寸(約1.1m)
  • 背高:5尺7寸(約1.9m)
  • 胴囲:1丈(約3.2m)
  • 長 :7尺4寸(約2.5m)
  • 尾長:3尺3寸(約1.1m)
頭長がどこからどこまでを指すのかがいまいちわからんが、それは扠措きこのスペックだけ見てももうデカいのかどうなのかさっぱりわからん。
ただ、鼻の長さと尻尾の長さが同じとは初めて知った。
今度会社で自慢しよう。
出来れば体重も知りたかったところじゃし、当時の人も出来れば測りたかったんじゃろうが、まあ無理じゃろうな。

【ぞうさんの旅程】
生き残った牡ぞうさん(当時7歳)は、亨保14年(1729年)3月13日に長崎を出発し、主には山陽道・東海道を通って陸路で江戸に向かった。
象鳴き坂の辺りを通ったのは、亨保15年(1729年)5月8日らしい。
5月8日 本坂通気賀(現在の浜松市北区細江町気賀)の与太夫さんちに泊まったとの記録がある。
最終的に江戸に着いたのは同年5月25日ということらしいので、約2ヶ月と10日程かかったことになる。
距離にして345里(1355km)で、この旅でぞうさんが1日に歩いた距離は大体3〜5里(12〜20km)だそうじゃ。
何か計算が合わんような気もするが、ワシ計算ニガテじゃから気のせいじゃろう。
それはさておき、意外に速いと思うのはワシだけじゃろうか。
ワシじゃったら長崎から東京まで徒歩で2ヶ月なんてとても無理じゃ。
着く以前に途中で倒れてしまうじゃろう。
しかしながら資料では「ゾウに道中において万一トラブルがあってはいけないという付添役人の配慮」により、これでも抑え気味のスピードだったらしい。
ぞうさん、速えな。

【ぞうさんのアテンド】
象使いのベトナム人2人、日本人象使い見習2人、通訳、長崎の代官等総勢14人もの付添を引き連れておったらしい。
可成りのVIP扱いじゃな。
まあそりゃそうじゃろ、吉宗へ献上するぞうさんじゃから何かあったらクビが飛ぶ。
万全の体勢を敷いたもの無理はなかろう。
しかし当時既に”日本人象使い見習い”なる立場の人がおったのというのは驚きじゃ。
ワシが当時の人で、象使い見習いの求人があったら応募していたような気がする。
あと、代官じゃ。
この代官め、内心(貧乏くじ引いたな、うぜえなあ面倒じゃなあ)と思っておったに違いない。

【そうさんが旅した道での心遣い】
  • ぞうさんは騒々しいのが嫌いなのでパンピーの見物は禁止(家の中からは可)
  • 鐘や太鼓などの鳴り物禁止
  • もし火事があっても鐘を撞くのは禁止(広島)
  • 煙草など煙が出るもの禁止
  • 道筋のほぼ100mごとに水を入れた手桶を用意
  • ぞうさんがビビると困るので牛や馬は道から遠くに連れて行かれた
広島ではその時火事が起こったかどうかはわからん。

【如何にして河を渡ったのか】
”ぞうさんは水を嫌う”というように思われておったらしく、それが理由で基本陸路になったようじゃ。
じゃから「桑名・宮間の七里の渡しや、新居・舞坂(ママ。現在は「舞阪」じゃが当時は「舞坂」)間の今切の渡しを避けて、美濃路や本坂通(=旧姫街道)を通行した」らしい(カッコ内はワシ補足)。
前回書いた「なんで今切を船で渡らんかったのか」の答えがこれじゃろう。
ただし、直接江戸に乗り付けなかった理由にはならない。
江戸時代は幕府方針で橋が余り架けられておらんかったらしく(軍事上の理由じゃろうか)、ぞうさんが河を渡るのは難儀じゃった。
当時の河を渡る船なんてぞうさんを運ぶ能力はないじゃろうから「なるべく渡船をせずに、浅瀬へ迂回して歩行渡しするよう通達された」。
それにより落合川(現在の都田川?)を渡るためにわざわざ上流の浅いとこまで回り込んだとのことじゃ。
ただ木曽三川とかは浅いとこなんてないんで、結局は船を使った。
ぞうさんが水を見てビビらんように周りに幕を張った船じゃ。
すげえな。
多摩川を渡るときは川面に船をたくさん並べて臨時の橋を作り、そこを渡らせたらしい。
都田川でもそうすりゃいいのにとも思ったが、そのへんは各地方政府の判断もあったのかもしれんな。

やあ、今日は疲れた。
続きは何回かに分けて書こうと思うじゃよ。




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貴方のコメントは世界とワシとあなたを救う。
たぶん。