2019年1月14日月曜日

温泉に行かない日(361) 豊橋◯◯割の不思議(4)

な〜にが「どっとはらい」じゃ、全く。
巫山戯るのもいい加減にしなされ、なる厳しいご指摘は別に受け取らんけども。

妄想の世界はこの辺にしといて、◯◯割(正確に書くと◯ノ割)がどうしてそうなったのか、実際のところはどうなんじゃろうかと思い、本日いきなりではあるが豊橋市中央図書館(愛知県豊橋市羽根井町48:0532-31-3131)に行ってきた。
こういう時は図書を当たりたいというのがワシの性格だもんで。

近隣市町村の図書館同士では相互貸出というシステムがあったりして、それが使えれば豊橋市の図書館にある本をこっちの地元で借りたり出来るんじゃけど、豊橋とワシの地元の図書館がその協定を結んどるかどうか判らんし、協定があったとしても手にするまでには何日かかかるに違いない。
ドライブがてら豊橋まで行くのもいい気晴らしじゃろう。



図書館に着き、貸出カードを作成した後、
「えーっと、郷土図書系の資料はどこにありますか?」
と訊ねると、
「あ、2階になります」
「となると、資料の照会も上でしたほうがいいですか」
「はい。詳しい者もおりますので」
2階に上がり、カウンターの奥に座っとった如何にも利発そうな女性に、
「えーっと、『しんの』と呼ぶのか『かみの』と呼ぶのかわかんないんですけど、ほら…」
「ああ、はいはい。じんのしんでん、ですね」
「じんの、が正しいんですね。その資料を探してるんです」
「実は、名前の読みは違うんですけどね」
そう云っていたが、意味が分からなかったのでその時は聞き流した。

図書館の聡明そうな女性は、目の前に置いてある富士通製PCのキーボードを軽やかに叩き(図書館システムは何故かF製が多い)、
「結構沢山資料あります」
といって、ディスプレイをワシに向けてくれた。
確かに沢山並んどる。
タイトルだけ見てもどれがいいのかさっぱりとわからん。
「神野新田」という文字が含まれている12冊の本のうち、高田純次よりもテキトーな感じで2冊選んだ。
「神野新田」(酒井 正三郎:1952年)と「神野新田120年の物語」(神野新田研究会:2017年)の2冊。
比較的古いのと、比較的新しいのを選んだ。

前回、ワシはこの新田について巫山戯て書いたが、実際にはこの新田の開発はなんだろ、可成りドラマティックな展開があったと本を読んでわかったよ。
正に、艱難辛苦。
造り、壊れ、造り、壊れ。
関係しとるのは、愛知、岐阜、そして山口。

最終的に完成させたのは神野金之助(かみのきんのすけ)。
地名と異なる。
司書のお姉さんが云っとったのはこのことじゃろう。
しかし本には其のことについての記述は見当たらんかった。[1]

思ったのは、この新田開発は人の心と経済の交差点だなあということじゃな。
例えば、投資先を探している新興銀行。
開発すれば確実に地元の民に将来があると確信している人間。
その確信の根拠を得るための行動。
毛利家の末裔。
人徳ある豪商。
こりゃ、おもしれ〜。
多分、もっともっと精読すれば、すごく面白い物語が見えてくるはず。
でもそれは、後にしよう。

そう、ワシが今、興味があるのはイロハの地名。
ということで、「神野新田」のほうのイロハ関係の記述を転記します(引用元は「神野新田」P99)。
(ロ)神野新田
この新田は、毛利氏築工の頃には、「吉田新田」と称え、また「牟呂新田」といい、のちには「毛利新田」と唱えていた。しかるに都合上、名称を改める必要がおこったので、これを「神野新田」とし、関係村たる牟呂村・大崎村・磯辺村は、それぞれ村会を、明治二十八年六月に開催して、名称改正を議決し、其筋に届け出で、ここに「神野新田」の名称は正式に認可されたのである。
「神野新田」は、総面積千百町歩の広い地域に亘るので、統理上すくなくとも数十本に分かつ必要を認め、衆議のうえ、次のように分けた。
牟呂村所轄 イロハ四十八文字をもって四十八に区劃する、外に字会所前
磯辺村所轄 宮前・品井潟(本では旧字)・中東東・中洲・江縁の六字
大崎村所轄 沖の島・中の島の二字
そののち、神野新田の中心は久しく牟呂村の一部として、新田内に牟呂村役場の支所として擁していたが、昭和七年九月、豊橋市に併合せられるに及んで、現在のように、豊橋市神野新田町となった。
結果が見えた。
え〜っと、あのうそのう、うむ。
衆議の上。
つまりじゃね、答えは、

みんなで決めた

これでした。

ただ、いろいろ疑問もある。
ワシの戯言のように、区劃がたまたま48じゃったからイロハに嵌めたのか、逆にイロハありきで48に収めたのか。
あと、神野新田ってのはいろいろな経緯があって「毛利(想像通りの毛利じゃよお)新田」から委譲したんだけど、その委譲(毛利⇨神野)の取り決めの文書にはすでに「イノ一番」とかいう名称が出てきておる。
じゃから、イノ割とかロノ割というのは、毛利時代以前に付いとった可能性がある。

ワシは、あほじゃからむつかしいが、これ、面白いテーマのような気がするんじゃがなあ。

イロハがわかんなくてもいい、神野新田については面白そうだ。
いや、やはり、誰がイロハを考えついたのか、その個人が知りたいよ。



イロハの名前が付けられた旧牟呂村の神野新田じゃけど、唯一イロハ以外の地名が付いとる会所前という所に、神野新田資料館(愛知県豊橋市神野新田町字会所前66:神野新田土地改良区に隣接:0532-45-7476:9:00〜16:00:土日祝及びお盆・年末年始は休館)というものがある。
土日休みじゃから入館はかなわんかったが、もしかしてここに其の辺の資料があるかも知れんし、もし中の人がおったら其の人が知っとるかも知れん。
平日来るのはむつかしいが、機会があれば行ってみようと思っとる。

[1]
その後、豊橋市立図書館のウェブサイトで神野新田関連資料を探していると、リファレンスのページでこんな記述を見つけた。
質問内容:神野新田は(じんの)と読むのに対して、神野金之助をはじめとする神野姓の読み方について、「じんの」と「かみの」どちらで呼称するのが正しいのか知りたい。
回答内容:神野姓の読み方については、以下の資料があります。
『神野三郎伝』(中部瓦斯,1965)p673~674、p861~877
『神野太郎伝追想録』(中部瓦斯,1986)p139
『神野三郎伝』には「最初はジンノだったが、大正の初め頃本家がカミノと改めたので、カミノとなった」との記述があります。
郷土史家・吉川先生談「昭和30年頃神野太郎氏がこれからはジンノでなくカミノにする」
図書館で選んだ2冊の本を読んだ限りでは、干拓を指揮した神野(かみの)金之助という人物は可成りの人格者であったらしいので、実はワシはこういう想像をしとった。
地元民「やはりここは、神野(かみの)新田って名前しかないっしょ」
金之助「いや、この干拓が成功したのはワシだけの力によるものではない。いろんな人の協力や、地元のみんなの素晴らしい尽力があってこその成功じゃ。じゃから神野新田はやめといて、別の名前にした方がよいじゃろう」
地元民「しかし神野先生、矢張り先生の指揮があってこそ、皆が力を合わせることが出来たし、計画通りに進んだんだと思う。神野新田に決めましょう」
と、ここで再び洒落者が登場。
洒落者「を、揉めてますね。はっはーやっぱりみんな仲良くが一番ですぜ。そうだな〜、だったらこうすればどうでしょう。神野新田と書いて、神野先生とは違う読みにすればいいじゃん。そう、神野新田と書いて『じんのしんでん』って読ませりゃあ、みんな納得でしょ」
事務方「お、そうしましょう決定決定!よーし決まったならば早く飲みに行かなきゃ日が暮れますよ。早く早く!」
まあ実際にはこの想像は違っとったわけじゃけど、こんな想像をさせる神野金之助という漢は見上げた人物だったに違いないと思う。

2 件のコメント:

  1. 面白く読ませて頂きました。
    神野新田については「神野新田まとめサイト」に複数のホームページが紹介されてます。
    https://jinnogood.jimdofree.com/

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    1. コメントどうもありがとうございます。
      書いた後はちょっとふざけすぎたかなあと思いましたが、開拓をやってのけた神野金之助という人物に対してのリスペクトを根本的には持っているという事がわかるようには書いたつもりです。
      ◯ノ割という地名への興味から色々広がって、面白い時間を過ごせたと思っています。
      そして神野新田まとめサイトのご紹介ありがとうございます。
      今から読んでみます。

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コメントどうもありがとうございます。
貴方のコメントは世界とワシとあなたを救う。
たぶん。