2021年1月31日日曜日

温泉に行かない日(473) 最近投稿が少ない理由

このブログは長年ダラダラ続けとるが、投稿スケジュールをきちんと決めとるわけではなく、書いとる内容も温泉銭湯ベースといいつつ各方面に拡散気味であり、芯が全く通っていないと我なながら思う。
忙しくなって来ると書かないし、ネタがないと書かないし、暇になったり新たな興味が見つかれば増える。
心身状況にも投稿数や内容は左右される。
じゃから投稿数に関して云えば年により月により大きな変動があり、年で云うと最高は2013年は223ポストで最低は2017年の15ポスト。
勿論月により変動もある。
しかし別に構わんじゃろう、ワシ個人の日記じゃからね。

さて、今現在である2021年1月じゃが、1月23日に姫街道を歩いたぞうさんに関して書いた以降はなんも出しとらん。
それには理由があり、実は裏ではあるテーマを定めてたくさん書いておるんじゃが表に出しておらんだけじゃ。
ほぼ毎日書いており、非公開のポストは12本程ある。
今後も暫くは(そうじゃなあ多分数ヶ月は)表に出さぬまま書いていくことになる。
ワシの能力や時間は限られておるので、非公開のポストを書く分表に出せるポストが減るのは必然的なことじゃろう。

非公開ポストについては、諸事情により即時にオープンできん。
将来の然るべきタイミングで公開する予定じゃが、まあ大した内容では無いので期待せんでもよろしい。
本日は以上じゃろう。

2021年1月30日土曜日

温泉に行かない日(474) Cafe de Clarkの移転先を探る

先だってお伝えした如く、Cafe de Clark(かふぇ ど くらーく:静岡県浜松市天竜区谷山45:090-1754-1874:土日祝のみ営業:10:00〜16:00)は来月2月14日を以って天竜区谷山での営業をやめて、天竜区春野に移転することが決まっとる。
移転先は春野の松本屋旅館(静岡県浜松市天竜区春野町堀之内983-2-2)じゃ。
この旅館は大変由緒のある旅館じゃったが、昨年8月末に惜しまれながら閉業した。
その建屋をそのまま活用して新たにカフェをオープンさせようという素晴らしい試みのようじゃ。
ワシはその話をクラークのお姉さんから聞いておったし、やぎのマサオも諭吉も谷山を離れて春野に引っ越すとも聞いておったんで、是非現場を見たいと思ったんで、早速行ってみた。
天竜の山東(やまひがし)の分かれ道を右に入って暫く行くと秋葉神社の下社があるが、それを左に見ながら更に少し進むと、右手に浜松磐田信用金庫春野支店がある。
その看板のところをぐいと右に曲がり降りたところにある古くて大きな建物が旧松本屋旅館じゃ。

© ill-health(ruephas) 2021

見るとすでに改装にかかっとる様子じゃ。
ただ本日は土曜ということで作業はお休みの様子で誰もおらん。
写真じゃと、タダの大きい建物のように見えるが、実際には更に奥に建物が続いておって、全体ではL字型をしておる。


井澤屋食料品店の真南にある逆L字型の建物が
旧松本屋旅館

正面に行くと、時代を感じさせるものが色々と見つかる。
写真を取り忘れたが軒の上には、県庁(「県廳」と書いてあった)職員が泊まる指定の旅館であることを示す看板が出ておる。

また、割烹をやっておる旨の看板も出ておる。

© ill-health(ruephas) 2021

玄関先の様子はこうじゃ。

© ill-health(ruephas) 2021


話電
 二
 三
 番

というのがまた渋い。
このようなものがまだ残っておるのがいい。

考えてみれば、このような寂れた町なのに、立派な信用金庫があったり郵便局があったりということは、嘗ては案外殷賑を極めた街であったのかも知れん。
林業の関係かも知れんなあ。
電話の存在もそれに基づくものなのかも知れんと思った。
そうでなければこのような立派な旅館が100年以上もやって来れるわけは無い。
建物の周りをぐるりとしてみたが、兎に角大きな物であり、他人事ながらこれを今後維持していくのは大変じゃろうと云うのが正直な思いじゃ。
しかしあのお姉さんの事、なんだかんだ云って楽しみながらこなしてしまうんじゃろうなあとも思えた。

周辺を散歩してみると、こんなものを見つけた。

© ill-health(ruephas) 2021

貧弱なカメラでガラス越しに撮影したもので、わかりにくくてすまん。
どうやら現存する建物の更に先代の建物の模型のようで、当時の繁盛ぶりがわかる模型じゃ。
必見じゃ。

今のClarkがなくなるのは大変に寂しいんじゃけども、新しい場所でどんなことをやってくれるのかはそれ以上に楽しみじゃ。
ワシは人混みが大変にダイキライじゃけども、2月14日の最終営業日には是非Cafe de Clarkに行ってサヨナラを告げ、新しいCafeが見つかったら飛んでいこうと思う。
マサオや諭吉も新しい場所で元気にやっとるかも見にゃあいかんからの。

2021年1月23日土曜日

温泉に行かない日(472) 姫街道のぞうさん②

さて、姫街道を歩いたぞうさんについて、既にある記録の転載が主じゃが、続きを書いてみよう。
姫街道のぞうさんに関する書籍や資料は探せば色々ある可能性もあるが、先日図書館で探した資料を中心に、蜘蛛の巣の世界での検索結果も併せて書くじゃ。

【官位を貰ったぞうさん】
出発して約1ヶ月の四月中旬にぞうさんは京都に着いた。
ぞうさんは京都で「広南従四位白象」なるタイトルを獲得し、御所に行って中御門天皇と霊元法皇にあった。
そういうタイトルをつけないと天皇に会うことができんかったらしい。
調べるとこの位階は貴族としてカテゴライズされており、鎌倉時代だと北条一族とかが軒並み貰っとる。
今は流石にこのようなシステムはないが、受勲で云うと旭日中綬章辺りが同等とされておるようで、有名所では例えば映画監督の大林宣彦氏とか作家の陳舜臣などが貰っとる。
ぞうさんなのにすげえな。

【人気者のぞうさん】
大阪・京都あたりでは可成りの騒ぎになったようで「人々はゾウを巡って熱狂した」らしい。
また関連書籍も多数発行され、更には江戸でも先行して書籍が販売されたとある。
更にはぞうさんが江戸にたどり着いた際には号外も出たとのことじゃ。
ぞうさんはパンピーにとっては想像上の生き物で、兎に角デカくて鼻が長いくらいの情報しか持ち合わせておらんかったじゃろうから、いざモノホンが来るよ来たよとなれば、そりゃあ熱狂するじゃろう。

【病気のぞうさん】
5月くらいにぞうさんは箱根に着いた。
あのガタイがいいぞうさんじゃが流石に疲れておったようで、病気になってしまったらしい。
ぞうさんが病に苦しんどる旨はすぐに江戸に伝えられ、アテンドの役人はぞうさんに何とか元気になって貰おうと饅頭や蜜柑をあげて看病したらしい。
ぞうさんが饅頭蜜柑が好きだったとは初めて知った。
また、焼酎も飲ませて元気づけたという記録もある。
焼酎なんか飲ませたら大変なことになるような気もする。

【江戸に着いたぞうさん】
5月25日、ぞうさんは遂に江戸に到着し、疲れも癒えてないと思われる27日にはもう吉宗に会った。
吉宗的にもそりゃあ念願のぞうさんが来てくれたわけじゃから1日も早くお目にかかりたいと思っておったんじゃろうことは想像に難くない。

【ぞうさんのその後と最期】
此処から先はちと辛い感じになってくる。
吉宗に謁見後のぞうさんはその後、浜御殿(今で言う浜離宮じゃろう)で飼育された。
可成りいいところで暮らしておったわけじゃ。
しかしじゃ。
暫くすると「財政理由などにより中野村の農民源助に預けられ」たらしい。
おいおい、わざわざベトナムから来てもらい2ヶ月以上も掛けて江戸まで来てくれて、人寄せパンダ見たく皆からワイワイ見物されて挙げ句「カネがないからもうここから出てってくれ」はあまりに可愛そうじゃろうマジで。
酷い仕打ちと言わざるをえん。
一方、中野の百姓源助さんもすごい。
想像じゃが、村を管轄する木っ端役人あたりから、
「やあ源助おはよう。今日もいい天気じゃな。ところでお前なんか動物が好きだって聞いたけど」
「へい、好きです。犬を1匹と猫を2匹飼っておりやす。動物はどんなものでも可愛いものでごぜえやす」
「おお、すりゃあ好都合じゃ。もう1匹お前に飼ってほしいものがあるんじゃが受けてくれるか」
「へい、お役人さんからのご依頼とあらば」
「これじゃ」
ぱお〜んと鳴いて、ぞうさん登場。
ビビるわ、普通。
自分に当てはめて考えてみなされ。
ワシじゃったら泡吹いて卒倒するわ。
どういう経緯や交渉、あるいは報酬がどのくらいだったかはわからぬが、兎に角源助氏は貴族の官位を持つぞうさんを引き取り、家で飼い始めたわけじゃ。
いやあ、多分大変じゃったと思うよ。
じゃんじゃん餌は食べただろうし、大きな声でぱお〜んと鳴くし、歩けばどしんどしんするから、場合によっては源助さん家も多少揺れたかも知れん。
そして寛保2年(1742年)、ぞうさんは息を引き取った。
享年22歳。
病死じゃったそうじゃ。

調べてみたらぞうさんの寿命はだいたい60〜70年ということで、当時の日本人よりだいぶんに長生きじゃったようじゃ。
それなのにこのぞうさんは22歳の若さで死んでしもうた。
心身ともに可成りのストレスが掛かったからじゃろう。
一人きりで友達のぞうさんもおらず寂しかったじゃろうなあ。

死後「その皮は幕府の召し上げとなり、遺骨は中野の宝仙寺に安置されることになった」。
おい、幕府。
めんどくさいことは百姓の源助に全部やらしといて、皮は珍しいからって召し上げるなんてひでえじゃねえか。
せめて源助さんに贈りなさいよ。
まったく、吉宗とも当時の幕府ともワシは直接的関係や接触や利害は全く無いわけじゃが、なんだか猛烈に腹が立ってきたぞ。
吉宗も吉宗じゃ。
見たかったから外国から呼んで、見終わったらそのままポイかい。
人としてどうかと思うじゃ全く。

浜離宮から源助さんに託されたのがいつくらいかはわからぬが、源助さんは相当の期間ぞうさんとともに暮らしておったはずじゃ。
源助さんは多分ぞうさんに気軽に呼べる名前を付けたに違いないが、どんな名前をつけたんじゃろう。
散歩とかにも連れて行ったんじゃろうか。
多分、案外仲良く暮らしたんじゃろう。
せめて、源助さんと暮らした最期の期間が、このぞうさんにとって素晴らしい時間じゃったと思いたい。
じゃないとぞうさんが可愛そすぎる。

このぞうさんについては調べればもっといろんな事がわかるような気もするんじゃが、なんだか調べたい気分ではなくなってしもうた。
此れにてお仕舞い。



2021年1月17日日曜日

温泉に行かない日(471) 姫街道のぞうさん①

ワシは浜松市中央図書館に行ってみることにした。
最近は図書館システムが発達しておって、自宅からでも図書館内でもいくつかの条件を組み合わせて蔵書を検索することが出来る。
図書館内にある専用端末で「姫街道 象」で検索すると、
  • 享保の象と歩く姫街道歴史探訪会  会創立30周年記念・豊橋市制施行100周年記念事業
  • 点字1/2姫街道 見てある記
の2冊が見つかった。
前書は豊橋の人が書いておるようで、雰囲気的には自主出版とかという感じじゃろう。
後書は点字本じゃからワシには読めぬ。
じゃから取り敢えずワシは前書を選ぶことにした。
館内でしか閲覧できん資料のようじゃ。
これは何でも豊橋に住む藤原 裕一という人が2006年に豊橋市嵩山(すせ)の辺りから、浜松市の境目あたりにある腹浅間の辺りまでを歴史散策した際の計画書及び結果報告書のようなもののようじゃ。
従って、手作り感満載の資料じゃ。
ちなみにその行事の際には、藤原氏のご子息(当時高校3年:ということは今は33歳くらいか)が象の被り物を被って同行したと書いてあり、実施時期は10月中旬じゃったから、さぞ暑かったであろうとご同情申し上げるばかりじゃ。
受験は大丈夫じゃったかなあとも心配になる。
さてその中に、ぞうさんに関して少し詳しい情報が書かれておる。
本当は全文転載したいところじゃけども、どうするかな。
いやあ、やめとこう。
抜粋してみるが宜しかろう。
主には資料のP17に書かれている「◆亨保のゾウ」のセクションからの抜粋じゃが、抜粋元の文章を藤原 裕一さん自身が書いたのか、他の書籍からの転載なのかがはっきりしないので著作権的に問題あるかも知れんし。
記載には実証されていない仮説と思しきものが多いが、これは致し方ないことじゃろう。
以下「」書きは各資料から忠実に引用した部分で、地文はワシの主観が大いに入っておるから注意しなされ。

【何でぞうさん?】
吉宗という人は海外本が好きだったそうで、その関係で当時ベトナムではぞうさんを軍用として使っていることを知っていたのではないか。
だからそうさんがどんくらい実践力があるのかを実際に見たかったのではないかということらしい。
所で当時もし熱帯雨林(Aで始まる国際的通販会社)が存在していたら、海外モノが好きな吉宗はさぞ狂喜したことであろう。

【誰がぞうさんを運んできたのか】
中国の商人である鄭太威という人が、亨保13年(1728年)6月にベトナムから長崎に運んできた。
吉宗の側近が吉宗に忖度して発注したのか、吉宗本人が支持して発注させたのか、吉宗のぞうさんに対する興味を噂に聞いた鄭太威が気をきかせたのか、どうなんじゃろうか。
象鳴き坂に立っておった案内板には「京都から江戸へ下る途次」とあったんで、ワシは勝手に京都上陸と思っとたんじゃが、スタートは長崎じゃった。
まあそりゃそうじゃ。
当時の貿易窓口は長崎の出島に絞られておったんじゃものな。

【ぞうさんは何頭きたのか】
運ばれたぞうさんは牡牝の各1頭だったが、牝ぞうさんは逗留先の長崎唐人屋敷で病死してしまったようじゃ。
着いたら寒い国じゃしなあ。
可哀想に、長旅の疲れが出たのかも知れん。
まさか自分がこのような異国で死ぬことになるとは思いもよらんかったじゃろうなあ。

【ぞうさんの体格】
  • 頭長:2尺7寸(約0.9m)
  • 鼻長:3尺3寸(約1.1m)
  • 背高:5尺7寸(約1.9m)
  • 胴囲:1丈(約3.2m)
  • 長 :7尺4寸(約2.5m)
  • 尾長:3尺3寸(約1.1m)
頭長がどこからどこまでを指すのかがいまいちわからんが、それは扠措きこのスペックだけ見てももうデカいのかどうなのかさっぱりわからん。
ただ、鼻の長さと尻尾の長さが同じとは初めて知った。
今度会社で自慢しよう。
出来れば体重も知りたかったところじゃし、当時の人も出来れば測りたかったんじゃろうが、まあ無理じゃろうな。

【ぞうさんの旅程】
生き残った牡ぞうさん(当時7歳)は、亨保14年(1729年)3月13日に長崎を出発し、主には山陽道・東海道を通って陸路で江戸に向かった。
象鳴き坂の辺りを通ったのは、亨保15年(1729年)5月8日らしい。
5月8日 本坂通気賀(現在の浜松市北区細江町気賀)の与太夫さんちに泊まったとの記録がある。
最終的に江戸に着いたのは同年5月25日ということらしいので、約2ヶ月と10日程かかったことになる。
距離にして345里(1355km)で、この旅でぞうさんが1日に歩いた距離は大体3〜5里(12〜20km)だそうじゃ。
何か計算が合わんような気もするが、ワシ計算ニガテじゃから気のせいじゃろう。
それはさておき、意外に速いと思うのはワシだけじゃろうか。
ワシじゃったら長崎から東京まで徒歩で2ヶ月なんてとても無理じゃ。
着く以前に途中で倒れてしまうじゃろう。
しかしながら資料では「ゾウに道中において万一トラブルがあってはいけないという付添役人の配慮」により、これでも抑え気味のスピードだったらしい。
ぞうさん、速えな。

【ぞうさんのアテンド】
象使いのベトナム人2人、日本人象使い見習2人、通訳、長崎の代官等総勢14人もの付添を引き連れておったらしい。
可成りのVIP扱いじゃな。
まあそりゃそうじゃろ、吉宗へ献上するぞうさんじゃから何かあったらクビが飛ぶ。
万全の体勢を敷いたもの無理はなかろう。
しかし当時既に”日本人象使い見習い”なる立場の人がおったのというのは驚きじゃ。
ワシが当時の人で、象使い見習いの求人があったら応募していたような気がする。
あと、代官じゃ。
この代官め、内心(貧乏くじ引いたな、うぜえなあ面倒じゃなあ)と思っておったに違いない。

【そうさんが旅した道での心遣い】
  • ぞうさんは騒々しいのが嫌いなのでパンピーの見物は禁止(家の中からは可)
  • 鐘や太鼓などの鳴り物禁止
  • もし火事があっても鐘を撞くのは禁止(広島)
  • 煙草など煙が出るもの禁止
  • 道筋のほぼ100mごとに水を入れた手桶を用意
  • ぞうさんがビビると困るので牛や馬は道から遠くに連れて行かれた
広島ではその時火事が起こったかどうかはわからん。

【如何にして河を渡ったのか】
”ぞうさんは水を嫌う”というように思われておったらしく、それが理由で基本陸路になったようじゃ。
じゃから「桑名・宮間の七里の渡しや、新居・舞坂(ママ。現在は「舞阪」じゃが当時は「舞坂」)間の今切の渡しを避けて、美濃路や本坂通(=旧姫街道)を通行した」らしい(カッコ内はワシ補足)。
前回書いた「なんで今切を船で渡らんかったのか」の答えがこれじゃろう。
ただし、直接江戸に乗り付けなかった理由にはならない。
江戸時代は幕府方針で橋が余り架けられておらんかったらしく(軍事上の理由じゃろうか)、ぞうさんが河を渡るのは難儀じゃった。
当時の河を渡る船なんてぞうさんを運ぶ能力はないじゃろうから「なるべく渡船をせずに、浅瀬へ迂回して歩行渡しするよう通達された」。
それにより落合川(現在の都田川?)を渡るためにわざわざ上流の浅いとこまで回り込んだとのことじゃ。
ただ木曽三川とかは浅いとこなんてないんで、結局は船を使った。
ぞうさんが水を見てビビらんように周りに幕を張った船じゃ。
すげえな。
多摩川を渡るときは川面に船をたくさん並べて臨時の橋を作り、そこを渡らせたらしい。
都田川でもそうすりゃいいのにとも思ったが、そのへんは各地方政府の判断もあったのかもしれんな。

やあ、今日は疲れた。
続きは何回かに分けて書こうと思うじゃよ。




2021年1月16日土曜日

やぎさんが好き!(37) 栄松苑

知り合いから新規やぎさんの情報が飛び込んで来た。
浜松市浜北区にある造園屋さんに茶色のやぎさんが住んどらっせるとの話じゃ。
何でも蜘蛛の巣を散歩しとったらこのようなブログを見つけたと知らせてくれたんじゃ。
早速読んでみると、この造園屋さんは栄松苑(えいしょうえん:静岡県浜松市浜北区新原6625:053-587-6623:10:00〜17:00:定休火水)と云う所らしい。
矢も楯も堪らずワシはとっととクルマに乗り込み浜北区に飛んで行った。
着くと可成り広い敷地に植木が植わっとって、現在風なお洒落な形の幟旗も立っとる。
幟旗には「bloom interior green」と英語で書かれておる。
敷地近くの駐車場にクルマを停めて外に出ると「ご自由にご見学ください」と云うような案内看板があったので、お言葉に甘えて遠慮会釈なく敷地内にずかずか入って行った。
そしてすぐにやぎさんエリアは見つかった。
柵に囲われてはおるものの、敷地は広くやぎさん小屋は2つもある。
差し詰め、本宅と別宅という所じゃろうか。
中を覗くと、可愛い茶色やぎさんが本宅の方に一匹おって、干し草をちまちまボリボリ食べておる。
名前は「ゆきちゃん」で、多分牝やぎさんじゃろう。

© ill-health(ruephas) 2021

ただ、ゆきちゃんは少し恥ずかしがり屋なのか本宅の奥の方に引っ込んでおって、仲々ワシの方まで寄ってきてくれん。
そんな時には、ワシ自身もやぎさんになりきって呼ばわるのが比較的有効な作戦ということを、やぎさんセミプロ三歩手前を持って任ずるワシは心得ておる。
ワシは「へえいゆきちゃあん、へーい、べへい、べへへええい」と辛抱強く呼ばわり続けた。
ゆきちゃんは時々ワシの方をちらりと眺めるが、その眼差しははっきりと「おかしなやつが来たぞ。まいったなどうするかな」と云うものじゃ。
しかしワシは更に「へえいゆきちゃあん、へーい、べへい、べへへええい」と辛抱強く呼ばわり続けた。
そして遂にゆきちゃんは諦めたようで、ワシの方にとことことこと歩み寄って来てくれたのじゃった。
これは決してゆきちゃんをけなしているのではないが、ゆきちゃんはちょっと脚が短い。
そしてその分、体が小さめなことも相まって大変に可愛い。
ワシはCafe de Clarkのマサオと諭吉が大好きじゃが、特にマサオは脚がすらっと長くて少なくとも見た目は格好いい。
少なくとも見た目はな。
ゆきちゃんはマサオとかとは違って、ちんまりしとって可愛いんじゃ。
柵には風除けの為に青い網が取り付けられておるために直接触れ合うのは仲々むつかしいんじゃが、それでも網の外から手を差し出すとベロベロなめてくれる。
グーを突き出して角の付け根のあたりを押さえると、ゆきちゃんもぐーっと押し返してきたり、軽〜く頭突きの真似事さえしてくれる。
指を突き出すとはむはむして、最後にカプリと噛んだりもする。
そしてたまに、すごおく小さく可愛い声で「べへへへへ」と鳴いてもくれる。
誠に可愛いやつじゃ。
またゆきちゃんは、自分の尻尾で遊ぶことが好きなようじゃ。

尻尾を追っかけるゆきちゃん
仲々むつかしそうじゃ
© ill-health(ruephas) 2021

どっかのいぬさんみたいじゃな。
尻尾を追っかける時は「べへへへへ」ではなく、ちょっとくぐもったような声で「ぐぐぐぐぐ」と鳴くのが面白い。
行動に合わせて声を変えるという珍しい特技を持っておるようじゃ。
ワシは暫くゆきちゃんと遊んで、雨が降り出したので別れを告げて帰宅したのじゃった。

あとここ栄松苑は、敷地内に貨物コンテナを転用したカフェもやっておる。

© ill-health(ruephas) 2021

気候の良い際などには、カフェ淹れてもらったコーヒーを外のベンチで楽しみながらゆきちゃんを眺めたり、遊んだりも出来るという事じゃね。
こりゃあいいなあ。
造園屋さんじゃから此れ即ち木々という緑に囲まれておるから落ち着いた雰囲気じゃし。
メニューとしては、ハンドドリップコーヒー・紅茶・ハーブティー・りんごジュース・三ケ日みかんジュースなどがあり、価格も200円〜500円とお高くはないようじゃよ。

前脚を揃えておすましのゆきちゃん
© ill-health(ruephas) 2021


2021年1月15日金曜日

温泉に行かない日(470) 人混みを避けてプチ歴史紀行②

次にワシが向かったのは、旧姫街道にある象鳴き坂(ぞうなきさか:静岡県浜松市北区三ヶ日町大谷1442−15:pluscodeは「RJ33+HR 浜松市、静岡県」これをGoogle Mapsに貼れば検索可能)という場所じゃ。
以前テレビか本か何かで、何でか知らんが江戸時代かいつかにここ旧姫街道を象が歩いて行ったんじゃけども、余りの急坂に音を上げたぞうさんが鳴いて苦しんだと云う曰く付きの場所という事は知っておった。
心情としてはパオーンと鳴いたのではなく、辛さに泣いたという事じゃろう。
ここには昨年の或る日の夕刻、ワシは一度来た事がある。
旧姫街道じゃから基本少し荒れた山道でちょっと鬱蒼としとる。
しかも夕刻じゃったからちょっと怖くてその日は行くのは諦め、いつか来ようと思っとった次第じゃ。
この象鳴き坂の少し東の引佐峠には四阿(あずまや)とクルマが3台停められる駐車場があり、象鳴き坂はその駐車場から旧姫街道のやや厳し目の山道を西側に向かい上り下りして10分位の所にあるようじゃ(Google Mapsにはこの辺の旧姫街道は掲載されとらん)。

この地図じゃが、スマートデバイス利用の場合は
横にはみ出るかも知れん
すまんのう謝っとくワイ

駐車場にクルマを停めてワシは西に向かって旧姫街道を歩き始めた。
昼過ぎじゃったが鬱蒼っぷりは前回と変わらず、予想通り人は誰もおらん。
いつの時代のものかはわからんが旧姫街道は石畳であり、それがそのままならば歩き易いんじゃろうが、今は冬で石畳の上には大量の乾いた枯れ葉が積もっておる。
そのせいで大変に滑りやすく、何回かズルっとなってコケかけた。
初老じゃからいざコケたら大変なことになる。
怪我をしてもこんなとこを歩く酔狂な人物はワシの他にはおらんじゃろうから、最悪明日の静岡新聞に載るような事態にもなりかねん。
初老の会社員 旧姫街道象鳴き坂付近で転倒しあっけなく死亡
それは嫌じゃ。
イノシシに突き殺されるのも嫌じゃが、ハイキングコースであっけなく死ぬのは情けない。
従ってワシは慎重に歩みを進めた。
歩き始めてすぐに引佐峠。
引佐峠は十字の交差点で、左(南)に降りてゆけば寸座・佐久米方面、右(北)に歩けば尉ケ峰に出られるが、本日は直進(西)して象鳴き坂に向かう。
この辺から基本下りになっておる。
ズルリとしながらも下っていくが、その下り度合いがだんだんキツくなってくる。
だんだんと云うよりは結構なる形容詞の方が相応しい坂っぷりじゃ。
ワシのうっすい記憶によれば、ぞうさんたちは関西方面から東に向かって歩いたらしいんで、もしかしたらこの辺が象鳴き坂ポイントかも知れん。
しかし周りには何の表示も案内もない。
更にワシは下っていった。
勾配は相当急じゃ。
するとすぐに、ほれ何と云ったか、受験生が合格を願って天神社とかに吊り下げる願い事を書いた板切れがあるじゃろう、あのような形状をした看板が見えてきた。

© ill-health(ruephas) 2021

例により書き写しておこう。

象鳴き坂
1728年(亨保14年)広南国(ワシ注:現在のベトナム)より献上の象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途次、船で渡る今切(浜名湖)を避けて姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」とつけた。当時の書物によると象は牡であった。
浜松市教育委員会

ううむ、男の象でも辛くて鳴いたか。
正に男泣きじゃ。
しかし鳴く(泣く)程辛かったと実感出来る急勾配なのは確かじゃ。
これを見よ。
© ill-health(ruephas) 2021

写真じゃと仲々現実を伝えられん事が多いんじゃが、この写真は比較的伝えておると思う。
右側に立っとるのがさっきの案内板で、左下から>字型に通っとる細い山道が旧姫街道。
可成り見上げる格好で撮っておる。
きっつい坂じゃ。
こりゃ、鳴くわ。
否、泣くわ。
此処から先も下り坂(当時のぞうさんにとっては上り坂)じゃが、ここのポイントにおける勾配よりは緩い感じになっておる。
多分ここがやはり最大の難所、胸突き八丁であるのじゃろうと思う。
此処まで来て取り敢えずワシは満足し、あとこんな坂を更に下ったならば帰りがしんどいじゃろうという弱っちい心理も働いて取って返すことにした。

現地見分は此れにて終了としたけれども、ワシは根本的な疑問と、その疑問のさらに周辺的な疑問を抱いた。
みんなそう思うじゃろうが、ぞうさんを当時の将軍(調べてみたら吉宗じゃった)に見せてやろうなんて誰がそんなぶっとんだ事を考えついたんじゃろうか。
それと、ベトナムから日本には当然船で来た筈じゃ。
じゃったら何でそのまま直接吉宗がおる江戸に船を付けんかったのか。
わざわざこんな狭くてしんどい坂道を登らせんでもいいじゃろう。
そのほうが人様にとってもぞうさんにとっても楽チンじゃろう。
せめてこのエリアだけでも何故太平洋側を行かんかったのか。
さっきの案内板には「船で渡る今切(浜名湖)を避けて姫街道を通った」とあるが、ベトナムから日本まで(京都?)に比べりゃあちょろいもんじゃろう。
そもそも今切口を船で渡るのが東海道ではなかったか。
何故本道である東海道を行かんかったんじゃろうか。
坂のきっつい引佐峠経由などではなくてもう少し南、今で云うとR362とか天竜浜名湖鉄道が通っているルート、つまり都筑とか佐久米のあたり(猪鼻湖・浜名湖北岸)を通れば比較的フラットなはずで随分楽じゃとも思うんじゃ。

これはいかん。
また図書館に行かねばならんようじゃ。
ちいと調べてみよう。

2021年1月11日月曜日

温泉に行かない日(469) 人混みを避けてプチ歴史紀行①

我が国の政府が場当たり的迷走的な武漢ウイルス対策を繰り出す中、兎に角人との触れ合いを可能な限り避けつつ何か楽しめることはないかと探しておった。
普段ならばやぎさんや温泉銭湯方や大山くん方面を探るんじゃけど、静岡県中部以東と西側の愛知県には足を踏み入れたくはない。
そうなると、いずれも行ったことがある場所ばかりであまりおもしろくない。
そうこうしておると、以前市報に載っておった「実際に中まで入れる古墳」に行ってみようと思いついた。
その古墳とは、浜松市北区にある都田総合公園の北側にある見徳古墳(けんとくこふん:静岡県浜松市北区新都田1-4-10-6)じゃ。

綺麗に整った円墳
© ill-health(ruephas) 2021

写真の通り周辺は墓地公園のような感じになっておって、墓地内墓地と云うかそんな風情じゃ。
やや小さめの円墳で、南側に確かに入口のようなものがぽっかり空いておるのがわかる。
その入口のところに案内看板が立っておったので例により頑張って書き写してみようと思う。

© ill-health(ruephas) 2021
© 浜松市教育委員会

浜松市指定史跡「見徳古墳」
平成4年3月10日指定 浜松市教育委員会
この古墳は7世紀(約1400年前)に造られた直径12m、高さ2mほどの円墳です。周りに周溝が巡らされ、塚の内部には南に出入り口のある死者を納めた棺を安置した横穴式石室(全長8.3m、高さ2m)があります。この古墳に葬られた人は、都田地区で最も有力な家族(ママ。華族?豪族?)の一員と思われます。
都田地区では、郷ヶ平4号墳(中津、6世紀の前方後円墳)、恩塚山古墳(一色、7世紀の円墳)も市指定史跡として保存されています。
まあワシには詳しいことが全くわからんし、これを読んでもよくわからん。
ワシがやりたいのはガキと一緒で、ただ単に「古墳の中に入ること」だけじゃ。
ワシは早速入ってみた。

アクセスフリーっぷりがあからさまじゃ
© ill-health(ruephas) 2021

案内図だけ見ると、入り口から玄室までは結構長そうに感じたし、当然中に入れば真っ暗じゃろうと思ったんで、iPhoneのランプを点けて中に入ったが意外にも中はほんのり明るい。
入り口の高さは屈まないと進めないくらいじゃが、中に入ってしまえは立つのに問題ない高さじゃ(ワシの背は低いよ)。
通路の長さは思ったほどはない。
中にはいってそうじゃなあ、10歩程度で行き止まりになってしもうた。
もう少し奥があると思ったんじゃけども、もしかしてこの行き止まりは玄室を保護するために塞いだ壁かも知れんがよくわからん。

わかりにくい写真じゃなあ
すまんのう謝るワイ
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振り返った風景はこのような感じじゃ。

遠近法の効果だけではなく
実際に入り口のほうが狭い
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奥のどん突き行き止まりから撮った写真じゃが、なんとなくの距離感はわかるじゃろうか。
通路はあまり長くないことがわかるじゃろうか。
「ふうん」と思ってすぐにワシは表に出た。
そんなにすごい体験とは思わんかったが、それでもしかし今生きとる日本人の中で「古墳の中に入ったことがある」という人はそう何人もいないじゃろうから、それはそれで自慢にはなるじゃろう。

 

 古墳から出た後、ワシは古墳の直ぐ側にあるわんぱくゲレンデ(静岡県浜松市北区新都田1-3)でソリ滑りをしたかったんじゃが、折悪しく訪問時はお昼休憩中じゃったのでそれはかなわんかった。
しかし初老がわんぱくたちに混じってそりすべりに興じる姿は第三者が見れは奇異に見えるじゃろうから、これはこれで良かったのかも知れんな。

浜松市子育て情報サイト ぴっぴ より転載
© 認定NPOはままつ子育てネットワーク ぴっぴ

ワシはクルマに乗り込み、次なる目標値に向けて出発した。

2021年1月10日日曜日

プロジェクト "山神社"(67) 三社山神社

三社山神社と云う名前の神社は、浜松市西区入野町にあって2014年11月に参拝しとる。
鳥居が社殿に組み込まれたような奇妙な構造(文末写真参照)をしとって今でも覚えとる神社の一つじゃ。

 
こちらは2014年に参拝した方の三社山神社の地図

ところが本日、同じ西区入野町に同じ社名の別の神社(静岡県浜松市西区入野町4990-2)があるのを偶然見つけた。
ワシは最近こそGoogle Mapsで大山くん物件を探しておるが、基本は昭和16年に発行された静岡県神社志という本を情報源にしておる。
かなり詳しく書かれた本じゃけども残念なことにはその本にはある程度の社格(基本村社以上)のものしか書かれておらず、極少数のものを除き無格社は書かれておらん。
今回見つけた三社山神社は静岡県神社志には記載がなかったため存在も知らんかった。
見つけた以上行くしかない。
場所的にはイオン浜松西のすぐ近くて住宅街の中にある。
住宅地の場合、クルマの停めどころに苦慮するケースがあるが、近隣にはイオンの他に入野古墳公園があるし、目的地である三社三神社には西彦尾公民館があるのでなんとかなるじゃろう。
いざ行ってみると予想通り小さい公民館には数台分の駐車スペースがあった。
駐車場の掲示には「利用者が困るから用のないものはここに停めるな」と書かれておったが、なにか云われても「この奥の神社に参拝しに来ました」と答えれば大丈夫じゃろう。

駐車場から行くと、神社の裏手から入ることになる。
じゃから一旦境内を通り抜けて正面まで出て、そこから正式な参拝を行うことにした。
一部の神社には教育委員会辺りが作っておる由緒書が立っておることもあるが、ここにはその類はなく、神社独自の云われ書きのようなものも見られない。
短い参道を歩いて簡素な作りの本殿にお参りした。

小さな本殿
右には境内社が見える
© ill-health(ruephas) 2021

通例通りの参拝をして周囲を探してみるも、御祭神がわかるようなものはない。

こっちも鳥居ビルドインタイプじゃな
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本殿の中に何かあるかと格子戸の隙間から伺ってみたがよくわからない。

簡素ながらも綺麗に清掃された社内
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本殿内には祠が2つあって、外には境内社が1つあるので社名に三社が付いとるのかも知れん。
次にその境内社にもお参りした。

軒の赤い布は頭をぶつけんように
注意喚起をする意味じゃと思われる
© ill-health(ruephas) 2021

きちんと榊が供えられており、更にはお神酒代わりの小さなカップ酒さえ置かれておる。
近隣の方によるものじゃと思う。
しかし、境内社によくあるような表札はなく、残念ながらこの祠の中の人もこともわからんかった。

なにせ社名に「山神社」とあるので、本殿内部左側にあるデカい方の祠に大山くんが住んでおると信じたいところじゃが、境内社のほうが大山くんっぽいような気もする。
そんなこんなでワシは根拠もなく勝手にこの神社を大山くん物件と認定し、帰ったのじゃった。

しかしあれじゃなあ。
冒頭書いたとおり、最近ワシはGoogle Mapsで大山くん物件を地味に探しておるが、その対象地区は静岡県西部以外のところじゃった。
しかしこのような未知な神社も地元にあるかも知れん。
静岡県神社志に載っておらん神社がまだありそうだし、小さい神社になればなるほど大山くん物件の可能性も高いというものじゃ。
検索対象エリアをワシの近隣にしてやり直す必要があると痛感した次第じゃ。
しかし因果な趣味を持ってしまったものじゃ。


ちなみにこちらが7年前の2014年11月に参拝した方の三社山神社。
鳥居が軒を支えているという、本殿鳥居が合体した構造が面白い。

© ill-health(ruephas) 2014 / 2021

PS)
このブログは現段階(2020年1月10日18時)で非公開も含め全1036ポストありますが、このポストは公開されている範囲では1000ポスト目になります。
何らかの理由で非公開が増えたり減ったりすると変わってしまう変数的指標ですので、ラベルを貼ったりはしませんけど、まあまあ感慨深いです。

2021年1月3日日曜日

倉真赤石温泉(19) Facebook+Instagram+月刊PENの話

今回の年末年始は最もコンパクトで6日間という日取りじゃったが、ワシゃこのくらいで丁度よい。
武漢ウイルスが猛威を振るっとるから、例年じゃとほれ旅行じゃほれ海外じゃなどと浮かれて色んなとこに行く者も多いが、ワシ的には毎年どっこも行かんので、長い休みは不要じゃしな。
さて初老というものは所謂ルーティンを大事にする。
暮れ正月に必ずやることは毎回やりたいし、従来やっていないことは別にどうでもいい。
ワシの場合暮れ正月に必ずやっていることは、
  • 近隣にある大山くん三社への参拝
  • 温泉に入る
  • 昼酒
これらは絶対に外せないし、これら以外の事は別にやりたくもない。
ちなみに「近隣にある大山くん三社」というのは、大山祇神社(静岡県浜松市中区和合町189)、三嶋神社(静岡県浜松市中区和合町299−3)、三嶋神社(静岡県浜松市北区細江町中川347)のことじゃ。
これとは別に所謂氏神様にも参拝する(自宅が割れるからどの神社じゃかは秘密じゃヨ)。
温泉はどこでもいいんじゃが、ここ数年は倉真赤石温泉(くらみあかいしおんせん:静岡県掛川市倉真赤石5986:0537-28-1126:電話番号いいふろじゃヨ:¥1100:完全予約制:11:00くらい〜17:00くらい:途中の道及び駐車場がややシビア)に行くことが多い。
特に今年は多くの人がわんさか蝟集するスー銭などには行きたくない。
完全予約制、完全貸切制の倉真赤石温泉がやはり安心じゃし、云うまでもなく最上の泉質じゃし、ここ以外は考えられんわけじゃから、本日当然のごとく行ってきた。
風情泉質などなど、この温泉に関しては繰り返して書く必要はなかろう。
行けばその素晴らしさがわかるというものじゃ。
現在は残念ながら土日祝日のみの営業で事前予約が必要じゃからね。

この倉真赤石温泉について、新しい情報があるのでお知らせしようと思う。

まず、FacebookとInstagramをついに開始した。
Facebookはこちら、Instagramはこちらじゃ。
どちらもspa.kuramiakaishiで検索可能じゃ。
ちなみにどっちか(どっち「も」でもいいんじゃヨ)をフォローして、前日までに予約をした客には普段は有料販売している源泉をプレゼントしてくれるとのことじゃ。
料理やお茶に使えば美味しくなること間違いなしとのことで、欲しい人はペットボトルを持っていくことが必要じゃ。

次に、月刊PENという男性向けカルチャー・ライフスタイル誌があるが、そこでこの倉真赤石温泉を紹介してくれるらしい。
放送作家の小山薫堂さんが同誌で温泉に関する連載を書いていて、次号辺りで掲載されるとのことじゃ。
先日直接本人が来て色々インタビューしたり写真を撮って帰って行ったらしい。
乞うご期待といったところじゃろう。
小山薫堂さんが、ここ倉真赤石温泉をどう紹介するのか、今から楽しみじゃなあ。
雑誌と連動したウェブサイトもあるということなので、掲載されたら早速雑誌を購入し、サイトにも行ってみようと思うとる。



温泉銭湯コスパ算出表
泉質ポイント
4.5
風情ポイント
4.0
やぎさんポイント
0.0
入浴料
1100
温泉コスパ
0.9

2021年1月2日土曜日

温泉に行かない日(468) 君は山間部で野生のイノシシに出会う恐怖を知っているか

これは昨年、2020年12月19日午前の話じゃ。
この日は例により倉真赤石温泉に行って極上の温泉を愉しんだわけじゃが、順番待ちの時間を利用して温泉より更に少し北側、新東名掛川SA方面がどうなっておるのか見に行こうと思った。


この地図だと、倉真赤石温泉から北側の先には道がないことになっておるが、実は細い道がある。
細いとは云っても5ナンバーサイズなら何とかギリギリ通れる程度の道幅はある(硬い枯れ草でボディに傷が付く可能性は高いじゃけどね)。
まあ兎に角道があり新東名の擁壁近くまでは続いとるが、路面がちょいと危険(コンクリ舗装の下の土が雨水で抉れてなくなって、空洞状態になっとる)なため、クルマではなくて歩いて行ってみた。

中央の灰色の部分が抉れとる
(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021




道の行き止まりまで直線距離で200m程度で、歩きでも5分はかからない感じじゃ。
温泉を後にして道を歩き始めて暫くすると、道の左側にある川(倉真川か、倉真川の支流で結構清流)を挟んで広がる山の方で、人が入って山林を整備しているような音が聞こえる。
寒いのにご苦労な事じゃと思いつつゆっくり進んでいった。
程なくしてどん突きの行き止まりに到達した。

© ill-health(ruephas) 2021

この写真が行き止まりポイントじゃが、ここは恐らく新東名建設時には工事の拠点か資材置き場として使われておった様子できちんとしたアスファルト舗装がされておる。
舗装されていないスペースもあって、ちょっとしたソロキャンプくらいなら問題なくできそうな感じじゃ。
少し歩いたらキレイな水が流れる倉真川(若しくはその支流)があって水も確保できるし、水質が心配ならば倉真赤石温泉のお姉さんに事前にお断りを入れておけば、温泉で水道水を確保するのも可能じゃろう。
うむよしよしこりゃいいな、いつかここでソロキャンプをやってやろうと思いつつ、引き返すことにした。
山の方からは相変わらず山林整備の音が響いてくる。
この山は結構原生的というかあまり整備が行われていないように見えるし、これまでそれこそ何十回も倉真赤石温泉に来とるが、山林整備なんてしていることは見たことない。
何で藪から棒に今頃整備など始めたんじゃろうかと訝りつつ歩き始めると、その山林整備の音が急に移動し始め、川の方に降りてきてこちらの道の方に登ってきた。
音の移動の速度は結構早い。
先程の地図で見るとその辺りはのっぺりとした平地に見えるが、実際には道と山の間を流れる川はそこそこ深いV字状の谷になっていて、しかも結構深いブッシュ、人が高速度で抜けることは不可能な状態じゃ。

左上のガードレールがワシが歩いて来た道
山林整備の音は右の山肌から来て
中央の川を渡り左の道に登ってきた
(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021

草木を薙ぎ払いながら進まねばならぬし、途中川を渡る必要もあるんで、徒歩スピードであっても無理じゃろう。
しかしてその音はまさに山の斜面を駆け下り、川を難なくバシャバシャと横切り、ブッシュ状の谷底から駆け足以上のスピードで、まさに迅速に駆け上がってくる。
流石におかしいと思い、これはなんじゃろうか山林整備のおじいやんがこんな高速度で移動できるわけがないぞと立ち止まって慎重に周囲の様子を伺っとると、道と川の間に設置してあるガードレールの隙間から真っ黒くてデカい塊が2つ、道に勢いよく躍り出てきた。
そう、もうおわかりじゃろう。
イノシシ。
真っ黒でデカくて鼻の横に立派な角を生やした如何にも凶暴そうな大人のイノシシが2匹、ワシの前に飛び出してきてこっちに向かって全力で走ってきたんじゃ。
「イノシシにばったり出会って死ぬかと思った」等というニュースをたまさかに聞くが、ワシも含めて大抵の人は笑い飛ばして終わっておると思う。
しかしいざ実際に、ブッシュから飛び出してきた2匹のデカいイノシシがこっちに全力で走って来たのを目の当たりにすると、それは完全なる恐怖でしかない。
飛び出してきたポイントからワシが立っとった場所まではそうじゃなあ、10m程度じゃろうか。

手前のコンクリの切れ目に生えとる
草の辺りがワシの立ち位置で
奥においてある黒いサコッシュの辺りが
イノシシの立ち位置
(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021

ワシは恐怖で何も出来ず、ただ固まって突っ立っとることしかできん。
が、しかし。
こっちに向かって走ってきたのはワシを目当て(攻撃目標)にした行動ではなかったらしく、駆け出し始めてすぐにワシの存在に気づいて、急ブレーキを掛けて止まった。
ワシを見つけて吃驚して、向こうは向こうでビビったらしい。
誰もおらん山の中で自由気ままに楽しくはしゃぎ回っとったら、予想外にも貧相な初老がいてこっちを見ておるじゃないか。
わあ、クッソビビったぁ。
というような感じなんじゃろう。
野生のイノシシそのものはワシは生まれて初めて見たんじゃが、イノシシの急ブレーキもワシは生まれて始めて見た。
前足を思いっきり踏ん張って、まさにこれは急ブレーキと云って差し支えないじゃろう。
まずは第一の危機はこれで凌げた。
しかし、向こうは止まったものの撤退する様子もない。
2匹揃ってこっちをじっと伺っとる。
これはいかん。
この間、ワシは色々考えた。

まず、イノシシに出会ってしまったときの心得があったはずじゃ。
しかし、どうしても思い出せん。
イノシシを背にして逃げるのはヤバそうじゃという感じはしたので、何か動きがあるまではそのまま睨み合いを続けることにした。
何か動きがあったらどうしようということは思いつけんかった。
次に考えたのは、もし攻撃されたらどうするかということじゃ。
追いかけられたら逃げることは当然100%無理なので、何らかの怪我をする前提で、どういうような怪我にまとめるか。
以前、F1レーサーであったワシの大好きな中嶋悟さんの本を読んだ時のことを思い出した。
中嶋さんがどっかでレースをしておって事故ることが不可避な状態になった時、足を思いっきり伸ばして踏ん張って足を骨折するような体勢をとったと書かれていた。
足の骨折ならば直に回復できるが、内臓を破裂させるようなことになればそれは即ち死を意味するからじゃ。
幸いその時は中嶋さんの素晴らしいマシンコントロールにより何とか事故を回避できたらしいが、兎に角それを思い出し、もし襲われたら出来るかどうかはわからんが、何とか足だけを攻撃されるようにしてみようと決心した。
一方で、そんなに都合よく足だけを攻撃されることは難しいじゃろうとも思った。
まず足を攻撃されたら立っていられなくなるわけじゃから当然倒れ込む。
倒れ込んだらもう体中やられることは必定じゃろうと思えた。
それはとっても痛そうじゃとも思った。
さらに、明日の静岡新聞あたりに載るな、と思った。
いやいや地方紙だけではない、全国紙の地方記事ページは勿論、中日新聞とかのブロック紙の三面記事辺りにも載るかもしれない、ヤバいな。
ということを考えた。
「初老の会社員 掛川の山中でイノシシに襲われ重傷(若しくは重体、若しくは死亡)」
というヘッドラインが頭に踊った。
間違いなく、軽率な初老とか何とかかんとか散々な書かれ方をされるじゃろう。
上司は苦い顔をして入院見舞い、若しくは通夜葬儀に来るじゃろう。
イノシシにやられた男として末代まで語り継がれるじゃろう。
ヤだなあそれ、と思った。

大体こんくらいのことを考えたが、その間多分10秒もかかっとらんと思う。
死ぬ瞬間には生まれてから今この時、この今際の際(いまわのきわ)までのことが走馬灯のように一瞬で思い出すと云われておるが、ワシは「そんな事ないわ。見たんかそれ」とか思っとった。
しかしそのときはそのくらいの勢いで以上のことを考えたわけじゃ。
兎に角ワシは、2匹のイノシシの目を代わる代わる睨め回しながら、少しづつ僅かづつ後退を始めた。
後退する、これ即ちさっきのどん突き行き止まりの方に戻ることになり、退路が断たれることになるんじゃが、心理的に少しでも彼奴らと距離を取りたいという欲求のほうが強かった。
じりじり、じりじり。
すると、向こうも何だか攻撃的な雰囲気が少し薄れて、真っ直ぐこっちを見る感じがなくなり、もじもじしながらそのへんをウロウロし始めた。
で、数秒するとサッと向きを変え、さっき走りこんできたガードレールの隙間からブッシュの方にぱ〜っと駆け下りていった。

はあ。

九死に一生を得た、とは本当にこのことだと思ってワシはその場でへたへたと崩れ落ちてしまった。
しかしいつまでもへたり込んでいるわけにはいかん。
また来るかも知れん。
山の中に行って加勢を伴って戻ってくるかも知れん。
幸い、倉真赤石温泉までは数百m。
ワシは何とか立ち上がって、できるだけ音を立てないように、かつ、出来るだけ急いで来た道を戻り始めた。
慎重に戻りつつ道をよく観察すると、山(川)側のガードレール下には、イノシシが出入りしとると思しき出入り口のようなものが結構たくさん空いとる。

(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021


(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021


(後日2021年1月3日撮影)
© ill-health(ruephas) 2021

どうやら普段から普通に山から降りてきて、この出入り口を通ってこの辺を走しくりまわっとる様子が伺える。
そんな様子を眺めつつ数分歩き、倉真赤石温泉の建屋の中に逃げ込むことに成功した。
いつも温泉を入りに来るときにはいい温泉に入れて有り難いことよと思いつつ引き戸を開けるんじゃが、本日ばかりは別の意味で本当にありがたく思った。

考えるに、野生のイノシシは怖いし実際に襲われたら大変なことになることは間違いないが、あっちはあっちで人間にビビっとるということは実体験してわかった。
ビビッとらんかったら、あのような急ブレーキをかけることはないじゃろう。
その上で、もし出会ってしまったらどうするか。
ワシはそのような知識はないので、調べてみた。
イノシシに出会ったらというキーワードでググってトップヒットするのは福岡県の公式サイトじゃ。
詳しくはリンク先をご参照頂ければよいが、大変わかりやすく書かれておるように思う。
そして今回ワシが取った行動は、あくまで結果としてじゃが概ね正しかったことがわかった。
当然、計算してのことではなくて単にビビって体が動かず、その結果として正しいことになっちゃってたという感じじゃ。
ワシがイノシシにビビったと同様、向こうも人間を恐れているということならば、お互い会わないようにするが最上の策。
向こうさんも最近は食糧不足で、已む無く山を出て里まで降りてくることも珍しくないと聞く。
ちょっとした山林を歩く程度のことでも、よく聞く通りラジオを付けたり鈴を鳴らしたりして人が歩いておると云うことを向こうさんに知らせてあげれば、まあ無闇に近づくこともあるまいと考える。
それでも出会ってしまったら、先程紹介した福岡県のページに書いてあることを冷静に思い出して行動すれば何とか脱出できる可能性は充分にあると思う。

兎に角、九死に一生を得た思いじゃ。

2021年2月14日 追記)
淡路島の洲本市内で、イノシシに襲われた人が亡くなるという事故が起きた。
一応ニュースサイトのリンクを貼るんじゃが、そのうちリンク切れになるじゃろうから、失礼ながら本文を引用する。

2月12日朝、兵庫県洲本市の山林で、男性がわなにかかったイノシシに襲われて死亡しました。イノシシは逃げて、見つかっておらず、警察は警戒を呼び掛けています。
 2月12日午前8時前、洲本市池内の山林で「友人がイノシシに襲われた」と消防に通報がありました。消防が駆け付けると、兵庫県南あわじ市に住む梅本文男さん(79)が左足をイノシシに噛みつかれたままの状態で倒れているのが見つかりました。消防隊員が放水するとイノシシは逃げていきましたが、梅本さんは病院で死亡が確認されました。
 警察によりますと、梅本さんは友人と一緒にわなにかかったイノシシを捕獲していた際に、イノシシにかかっていたワイヤーが外れて襲われ、約50m引きずられたということです。
 イノシシ猟の経験があるという地元の男性は、野生動物を捕獲する際にはかなり危険が伴うと話します。
 (猟の経験がある男性)
 「わなに足が引っかかったイノシシを最終的に仕留めないと持って帰れませんから。それがうまくいかなかったみたい。手負いでイノシシも逃げようとして、人間の3倍も4倍もの力を出して抵抗する。事故があったということは悲しいですね。」
 男性を襲ったイノシシは体長約1m・体重70kgほどのオスとみられています。まだ見つかっていないことから、近くの小学校では集団下校が行われました。
 (児童を迎えに来た家族)
 「怖いよね。近いから。」
 (近所の人)
 「手負いなので心配です。」
 警察は住民らに警戒を呼び掛けています。

(c) Mainichi Broadcasting System, Inc.

ワシは、単に運が良かっただけと思われる。

2021年1月1日金曜日

プロジェクト "山神社"(66) 山の神古墳

極く少数なる読者・閲覧者・通りがかりの方。
新年明けまして御目出度う御座います。
2020年は万人が認める通りの酷い年でありましたが、今年2021年はワシ自身も皆様方にとっても多少マシな年になるようテキトーに祈願しております。

さて、新年と云えば初詣。
ワシにとっての初詣は最早仏閣ではなく神社と決まっておる。
出来れば大山くん物件で新年を開始したいところじゃ。
しかしこのご時世、人が集まる神社はできるだけ避けたい。
絶対に人がおらず、手軽に参拝できる距離感であり、当然大山くん物件であり、今まで行ったことがないというところがないか探してみたら1ヶ所だけ見つかった。
それは山の神古墳(静岡県浜松市浜北区内野台4-4-21)じゃ。
浜北区内野台は浜松市のベッドタウンとして機能している住宅地じゃけれども、古墳がたくさんある場所としても知られており、この山の神古墳はその中の一つじゃ。
山の神古墳の周辺にはその他に「赤門上古墳(モロ前方後円墳じゃよ)」「稲荷山古墳」「積石塚古墳群」等、意外にもたくさんの古墳が集まっておる。

近隣古墳御案内之図
© ill-health(ruephas) 2021

実際問題、ワシは古墳そのものに興味はない。
惹かれたのは当然「山の神」の文字じゃ。
この名がついている以上、何らかの形で大山くんが絡んでおる可能性はゼロではない。
蜘蛛の巣の世界で調べてみようと思ったが、近いこともあるし初詣がてら直接現場に行ってみようと思い立った次第じゃ。
現場に着くと真横にバス停がある。

どストライクなネーミングじゃ
© ill-health(ruephas) 2021
その名も「内野古墳」。
なかなかいいとは思うが「内野古墳」という固有名詞が付された古墳はない。
何故「山の神古墳前」にしないのかが訝られる。
あるいは「大山くん宅前」でも宜しい。
今度遠鉄バスに提案若しくは抗議する必要があるじゃろう。
「内野古墳」バス停を横目に見ながら、古墳があると思われる小高い丘というかの周辺を歩いておると入り口が見つかった。

大山くんへの道を指し示す標識
© ill-health(ruephas) 2021

山の神古墳への道を指し示しておる。
その裏には案内板もある。

© 浜松市教育委員会
© ill-health(ruephas) 2021

例によって書き写しておこう。
山の神古墳
別名「内野上2号墳」とも呼ばれており、直径十六メートル、高さ約一・八メートルの円墳です。
墳丘の頂上部分に「山の神」を祀った祠があることから山の神古墳と呼ばれています。
未発掘の古墳のため、出土品や時期は明らかではありません。
平成六年八月
浜松市教育委員会
(ボールドはワシ)
成程。
少なくとも山の神を祀った祠はあるようじゃ。
しかしそれが大山くんを祀ったものなのか、他の神様なのか自然石にようなものを祀っとるのかは残念ながら書かれておらん。
そしてこの古墳の正式名称は「内野上2号墳」らしいが、それじゃ味も素っ気もないからニックネームとして「山の神古墳」と呼称しておるようじゃということだけはわかった。
矢印の方向に目をやると短い階段が続いておる。

この程度の階段でも最近は辛く感じる
© ill-health(ruephas) 2021

登り切ると確かに円墳のようなものがあった。
円墳っぷりがわかる写真がうまく撮れんかったので、別に設置されておった説明看板から借用するよ。

© 浜松市教育委員会(多分)
© ill-health(ruephas) 2021

山の神古墳の傍らには、下にあるよりも更に詳細な内容の案内板が設置されておる。

© 浜松市教育委員会
© ill-health(ruephas) 2021

麓にあった案内板は平成6年時点のものでそこには「未発掘」と記載されておったが、こっちは平成21年3月に設置されており「平成20年に墳丘の確認調査が行われ」たと書いてある。
もう少し詳しい情報が書かれておるかも知れん。
山の神古墳
山の神古墳は、浜松市浜北区内野台4丁目の丘陵上にあります。元の地形は、北側にある稲荷山古墳から南側にある赤門上古墳まで、ほぼ同じ高さのなだらかな丘陵でしたが、現在は周囲が住宅地として造成されているため、切り立った単独の小山の上に立地しているようにみえます。墳丘の上には祠が祀られており、古墳名の由来になっています
平成20年に墳丘の確認調査が行われ、直径15.8m、高さ2.8mの円墳であることや、古墳の北側には溝が巡り(ママ。「周り」が正しい)(周溝)、南側には平坦面(テラス)が広がっていることがわかりました。またその平坦面からは、横穴式石室をふさぐ石(閉塞石)によく似た、ひとかかえほどの石がまとまって見つかったほか、須恵器と呼ばれる6世紀頃の土器の破片も出土しました。横穴式石室とは、石を組んでつくられる埋葬施設で、横に出入口があるため何人も死者を葬ることができ、古墳時代後期(6〜7世紀)に広まりました。
山の神古墳は、埋葬施設が未発掘で、調査の範囲も僅かであるため断定はできませんが、横穴式石室を有する6世紀半ば〜後半頃の古墳である可能性が高いと考えられます。
平成21年3月 浜松市教育委員会
こちらにも「墳丘の上に祀られた祠が古墳の名前の由来」であることの記載はあるものの、誰を祀ったかについての核心的記載はない。
残念なことじゃが、まあ本体が古墳だけに古墳に偏った内容になるのは、これは致し方なかろうと思う。
まあ仕方ない。
ワシとしてできることとすれば、その祠とやらに住んでいる中の人が大山くんであるということを頑なに信じてお参りすることくらいじゃろう。
で、その肝心な祠を見ると…

へ?

こ、これが神様の祠?
© ill-health(ruephas) 2021

これが、祠?
コンクリートブロック+コンクリート+コンクリートブロック2ケ+路傍の石。
祠感、皆無。

これは祠じゃないよう…
© ill-health(ruephas) 2021

別角度から見ても、コンクリートブロック+コンクリート+コンクリートブロック2ケ+路傍の石。
祠感、皆無。
なんじゃろうか、解体工事で解体し忘れた何かにしか見えん。
おいおい、こりゃ中の人は大変じゃろう。
如何にここにおるのが神様であったとしても、いや神様であるがゆえに、最低でも雨や夜露をしのぐ屋根程度はやはり欲しいじゃろうし、更に云えば神様だってプライバシーもあろうじゃろう。
せめて扉もつけてやってほしい。
そんなにカネがかかることでもあるまい。
近隣の人、何とかなりませんか。
ワシも協力するから。
噂によれば、この辺りには静岡県を代表し、かつ世界的にも有名な企業である某社(まあ仮にY社とでもしておこうか。Yは仮じゃから深い意味はないよ全然)創業者の某氏(まあ仮にK氏とでもしておこうか。Kは仮じゃから深い意味はないよ全然)の関係者が住んどるらしい。
この辺の人ににちょっとした協力を頂ければ、中の人の住環境は劇的に向上するじゃろう。
ねえY社(仮)のKさん(仮)、何とかなりませんかね。

ワシは、大山くん住環境改善に使われることを切に願って、コンクリートブロックの中に100円玉2枚を投入し、二礼二拍手一礼という極めてスタンダードなお参りを正式に行って、山の神古墳を後にした。