今週末、即ち明日2月17日は
先日に引き続き「豊橋銭湯ツアーPartⅡ」をやってこます予定であります。
今回は、前回入湯出来なかった「石巻湯」と「南栄湯」に訪れ、延べ2日かかってしまったものの、兎に角豊橋銭湯をコンプリートしてきます。
銭湯を求めて住居外の都市を訪れる。
コトホド左様にわたくし、最近やや銭湯に傾注している感があります。
ところで私、幼稚園までは岐阜市真砂(まさご)町というところに住んでました。
国鉄岐阜駅からほど近くに建ってた社宅アパートです。
オヤジは当時、岐阜に本社が有る某有名運送会社に勤めていて、そのカイシャの上に建ってた社宅です。
建物の一番下が荷物を捌いたりトラックに積み込むプラットフォームになってて、一種の下駄履き住宅ってヤツかな。
朝から夜遅くまでいろんな人が働いてて、大きな路線トラックや小さな集配トラックが出たり入ったりして面白かったなあ。
ヤッパリ一番風格があったのはでかい10トン路線トラック。
即ち、集配用の小さなトラックが街中のいろんな顧客から集めてきた荷物をまとめて積み込んで、夜間高速を使って別の都市へ運ぶ大型トラック。
ウチのオヤジは、そのカイシャの本社が有る岐阜と商都大阪の間を走る路線トラックの運ちゃんで、カッコ良かったっすね。
その支店の一番偉い人はWさんという名前の支店長さんで、その社宅のいっちばん大きな部屋に住んでいた。
Wさん
[1]は凄〜く優しくて、夏なんかだと当時はまだ珍しかったクーラー(エアコンディショナではないよ。あくまで冷やすだけ。しかも水冷。育ちのいいおぼっちゃま、信じられるかい?)が入ってる部屋に入れてくれて、その涼しい部屋で冷たいオレンジジュースをごちそうしてくれたりしてね。
従業員食堂もあって、信じられないくらいの安さでいろんなおかずが売ってて凄かったなあ。
まあ、こんな感じでその社宅は私にとって結構想い出深い場所なんですね。
その社宅には、その他にもユーティリティ設備として共同浴場があって、オヤジとか、オヤジの友達の他の社員の人と入ったと思うんですが、それ以外に結構な回数、外にある銭湯に行った記憶があるんです。
主には母親と行ったんだと思うけどね。
何故そう思うかというと、薄い記憶だけど、浮かんでくるのが女湯の情景だから(うふふ、いいだろ)。
もう40年以上の前の事で殆ど記憶が薄れてるんですが、即ち当時は幼稚園の年少とかですんで、女性の姿の記憶よりはお湯に表面に反射する蛍光灯の光を見て、
「雷って、水の中にもあるんだぁ」(我ながら可愛い)
とか、浴槽からOFしたり(記憶ではその銭湯の浴槽からは盛んにOFしてるんだけど、いかになんでも一寸考えられないため、他の記憶と混じってると思う)、入浴客が体を洗う為にざばざば掛けたあとのお湯が浴室端っこの小さな素堀っぽい排水口から流れ去る様子をみて、
「ああこんなにも沢山のお湯が…、勿体ないなあ」
[2]
等と思った記憶の方がより強くに残ってます。
あと、誤ってる可能性もあるけど、その銭湯の浴槽で溺れかけた記憶もある。
何か別の記憶とごちゃ混ぜになっている可能性も有るけど、兎に角気付いたら何かお湯の中に沈んでて、何か水底から水面を見上げるような恰好になっている。
別に苦しさはない訳よ。
やはりお湯全体が天井の光に反射してキラキラ綺麗に輝いているんだけど、その光景が暫く続いていて、次の記憶が洗い場の床で寝っ転がっているとこなんだよね。
「幼稚園の子が銭湯に入っていて、その子から眼を離したら浴室内から見えなくなっていたので慌てて捜したら浴槽の中に沈んでました。死んでたかと思ってドキドキしてましたけど、引き上げて床に寝かせてたら気付いたんで、一安心しましたぁ」
なんていう典型的な情景ですな、はは。
その後、小学校に上がるときに両親は郊外に一戸建てを建てて引っ越したので、その銭湯に行くことは二度とありませんでした。
その銭湯はおろか、このトシになるまで銭湯そのものから遠ざかったセイカツを続けてきてしまったのですね。
で、話はいきなり現在に飛びますが、先日帰省した時、ふと上のことを思いついて両親にその銭湯のことを訊いてみたんです。
母親は、
「う~~~~ん、銭湯にいった記憶等ない」
などと言っていました。
なんだそりゃあ。
若い時分には、でかいトラックの運転台に付いた矢張りでかくて水平なハンドルを威勢良くカッコ良く
[3]ぶん回していたオヤジは、今じゃあすっかり弱気な男になっていてやはり、
「う~~~~ん、ワシもしらん」
ついにウチの親たちにもそのトシなりに来ちゃったかあ。
でも違うなあ、その手の病気の場合、一般的には昔の記憶の方が鮮明な筈だ。
だから、その点はダイジョウブかもだけど、兎に角思い出せよ。
多分母親と行ってる筈なんだ。
幼稚園の年少とかでも歩いて行ける圏内に銭湯があっただろ。
等とシツコク食い下がってると、母親がポンと膝を打ち(年寄りはそういうことをホントにやるので面白い)、
「ああ。思い出した。哈爾浜だ。それは哈爾浜湯という名前の銭湯だったよ」
とのこと。
そんな名前の銭湯だったとはついぞ知らなかったな。
なんか相当独特な名前だな。
哈爾浜(ハルピン)っていやあ、例の哈爾浜でしょ。
哈爾浜からの引き上げ者が始めたか何かかな?
と思ったんですが、そういやあ岐阜駅前の問屋街(繊維街)の別名がハルピン街っていってたような記憶もあり、そうするとその銭湯はこの辺りだったのかも知れない。
憧憬の哈爾浜湯。
昭和42〜45年当時、岐阜市真砂町周辺に住んでいた方で、この哈爾浜湯について記憶の有る方、このコラムの一番下からメールかコメントを是非お願いします。
あとそうだなその他には、真砂町周辺にあった、
- 赤玉パチンコ
- 赤玉パチンコ近くにあったモツや(角打ち形式の飲み屋)
- 山勝百貨店(後にパルコになった場所だと思う)
- 山勝百貨店地下にあった拉麺屋
などについても、記憶的情報があれば是非お願いします。
え?
何故そんな情報を求めるかって?
そりゃああなた、愚問でしょ。
云うまでもないよ。
トシをとって、昔の記憶に耽りたくなったからさ。
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[1]
オヤジは当時よく、
「Wさんは珍しく現場上がりの支店長だから、オレらの事をよくわかってくれている」
なんて事を良く言っていた。
当時は何の事かさっぱり解んなかったけど、このトシになってみればよくわかる話ですね。
[2]
この気持ちを大事に育てて行けば、もしかしたら今頃私は優秀な浴槽設計施工エンジニアになってたかも知れないなあ。
現在のルキウスなんてもてはやされてたりして、うへへ。
しかし現実は地方企業のしがない中間管理職、おもろくないなあ。
[3]
本人曰く、
「若い頃、道を走る時には運転台の後ろにあるベッドに常に木刀を積んでいたものだ」
との事です。
後ろのベッドに木刀。
成る程、確かに威勢がいい感じがする。
するけどそもそも、
なぜそんな(無駄な)事をする必要があったのか?
という肝心要な点について彼に訊くと、彼は急に遠くを見つめる目つきになって、黙して語らずな感じになっちゃいます。
あははは、年寄りは面白い。